なぜ、広島に行こうと思っていたのか。拓郎絡みでしょう、と言われるのだけど^^;確かにそれもあるけれど、10年くらい前、夫の単身赴任先を訪ねたとき、一人で長崎の平和公園や原爆資料館に行ったのですね。その時、広島に行かなくちゃ、と強く思ったのです。
この国に生まれた者として、行かずに済ませることは出来ないと。
それから、なかなか機会がなく、歌碑除幕式には行くのだから、機会がない、なんて言い訳にもならないけど、いつもどこかに引っかかっていた。除幕式の時、一泊して平和記念公園に行くことも出来たかもしれないのだけど、一緒にはしたくなかった。拓郎ついでに行くものではないと思った。
昨年、ようやく生活も落ち着いてきて、年に一度は一人で旅行でもしようと思ったとき、まず浮かんだのは広島だった。それが都合で行かれなくなってしまって、今回、長男の孝行旅行。感謝しなくちゃ。
原爆ドームは、くっきりと朝陽を浴びて、静かに立っていた。
不謹慎な言い方だけれど、神様は、よくこういう象徴ともなるべき建物を、こういう形で残してくれたものだと思う。
被爆前は、さぞかしモダンな建物だったのでしょう。無残な姿を晒しながら、美しく、強く語りかける。「原爆が落とされたのです」と。
補強工事が入っていて、資材があちこちに積まれている。保存については、当初から様々な意見があるようだけれど、失くしてしまったのでは、戻らないものもある。
通勤の自転車、登校の学生さん達が行き交う朝。公園の中をゆっくり歩く。祈念館や資料館はまだ開かない。広々と明るくきれいな公園。こいういう清潔さって大事なのだろうと思う。みんなが気軽に足を運べるように。そこで気持ちよく時間を過ごせるように。胸を打つのに暗くある必要はない。
原爆死没者慰霊碑の横には、警備員さんがずっと立っている。立っていなけりゃならないんだね。毎年8月6日になるとテレビで見る慰霊碑だ。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」という有名な碑文を読みながら、私は何に向かって手を合わせているのかわからなくなる。誰が考え、誰が作り、誰が・・・。フト顔を上げると、屋根型になった碑の向こうに原爆ドームが見えた。
平和の時計塔、8時15分にチャイムが鳴るのに気がつかなかった。平和の鐘を撞いてみる。残響の長さに思わず頭を下げる。
原爆の子の像。カラフルな花のように彩る子供たちの折り鶴。たくさんの像、たくさんの石碑、たくさんの言葉・・・。ここは「記念」公園なのですね。「記念」と「祈念」。平和を記念する、終戦を記念する。俵万智さん以来、○○記念日は大流行りだけれど、お祝いの記念日になってしまいませんよう。
追悼祈念館の前で、警備員さんと会う。「まだですよね?」「どうぞ」。ドアの鍵を開けながら、案内してくれる。裏から入っているのかしら?キョロキョロしていたら、受付の前に出た。1分ほど前だったのか、受付の人は、ちらっと時計を見て、少し待って、にこっと笑ってくれた。
地下2階のモニュメントに打ちのめされる。
丸い壁面に被爆後の街並みが、パノラマで表現されていて、その下に当時の町名が表示されている。セピア色のぐるっと丸い空間に一人でぽつんと立っていると、四方八方瓦礫に取り囲まれているようで、身動きが出来ない。
下の方に書いていある町名ほど爆心地に近いのだとか。一つ一つ読んでいく。全国どこでも見かける町名。その土地独特の町名。あんな町の名前、こんな町の名前・・・その町の名前に、どれほどの暮らしが詰まっていたのか。
地下一階で見た被爆体験記をもとにしたビデオには、言葉もなく、何本も見ては、キリがないから行かなきゃ・・・なのに、なかなか腰が上がらない。
ようやく表に出ると、日差しが眩しい。
平和記念資料館。賑わっていると言ったら変だけれど、大勢の人が訪れているのに少し驚く。入館料の50円に何かニコッとする。老年の夫婦連れは、ガイドを頼んでいた。白人系?の外人さんが何人もいる。メモをとったり、撮影したり、熱心だ。三歳の男の子の遺品、ボロボロの三輪車を見ていたら、隣の若い女性のすすり泣く声が聴こえる。それぞれの心に落とすもの。それがこの公園の意味なのでしょう。
案外あっけなく見終わってしまった、と思ったら、改築中だったのですね。撤去された展示物もあるらしい。正直、長崎で見た時の息を呑むような衝撃はなかった。私が「慣れて」しまったのかもしれない。
改修が終わった2年後、私は、またここに来られるかなぁ・・・
川の流れをぼーっと見ていた。桜が咲いたら綺麗だろう、と思いながら。ふと「材木町」と書かれた物に目が止まる。東北の夫の実家、印刷工場があった町が「材木町」だった。同じ町名。「この町に材木商が多かったことから・・」同じ由来なんだろうな。
「昭和20年8月6日の原爆投下により、材木町は壊滅し、投下時刻に町内にいた住民は、全員が死亡しました。」
当時の住民が474人、被爆当日に330人が死亡、さらに昭和20年末までに19人・・・
この日は奇しくも3月11日。夫の郷里の材木町は、街中にあるので、ほとんど被害は受けなかったけれど。天災と戦争とは、絶対に違う。
この左右を川に囲まれ、船のような形をした公園は、旧中島地区。壊滅した町が、もう一度築かれることなく公園として残されているのですね。
この地図は、ひっそりと立っていて、どれだけの人が足を止め、読んでいくのか。思わずここで手を合わせる。銅像や石碑よりも。
広電に乗る。充分歩ける距離だけれど、一日券を買ったので、ちょっとでも乗ってしまう。路面電車はいいですね。一両のコロンと可愛い電車、というイメージでいたら、電車のように繋がって、車掌さんまでいるのもあって、びっくりした。
お土産、何を買いたいということもなく、生もみじ饅頭だのお好み焼きチップスだの伊予柑プリンだの、お彼岸にみんな集まる時のおやつばっかり買ってしまった。いろんな広電が載っているクリアファイル、買えばよかった。
フルーティーなベルギービールにケーキというおかしな取り合わせでお昼を済ませ、さて・・・
修道大は、少し遠い。そのためだけに切符買って行く事になる。どうしようか。でも、せっかくだから♪いってみよか
(続く)